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虚節イッター:記事を更新したいお年頃になってしまったようです
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絵が全く描けない状態からまず学習するべきは、絵の見方である。

絵の見方を知るということはそれ即ち、絵の描き方の基本を知るということである。

結局基本が大事なのだが、描けるようになっていないといけないわけではなく、
あくまでも基本的な描き方を知っているということが大事なわけだ。

何故そんなことが言えるのかをわかりやすく説明する。

まずズバッと一言で言うとだ。

絵の基礎がわかっていない君たちがプロの絵を見て何を吸収できるというのか!

プロの完成品をいくら見たところでそれを再現できるようになるわけがないだろう。

私今日は、ここで分かりやすい例えを用意してきました。

ペン回しってあるじゃん。

あれ、1回も回せない奴がプロの連続技を見て何を学習できますか?

指をクニャクニャしてるようにしか見えないでしょう?

つまり何度見ても、おそらく果てしなく見続けない限り真理にはたどり着けない。

それにプロの速度は基本的な動きを習得してからそれを繰り返し、
徐々に感覚でそれを行えるようになって上がっていったものであり、
最初からそれを再現しようとすることほど難しいことはないのだ。

じゃあ見方を理解するためにはどうすればいいのかということなんだけれども。

美術に関する技術を紹介している教科書を読みましょう。

知らないと思うが実は俺、美術部だった頃部室にあった参考書に目を通してました。

油絵とか見てもなんとなくどう描いたかわかる程度には理解できました。

そうすると身の回りの全ての絵が教材になるじゃないですか。

圧倒的な速度で技術を向上させることができる。

星シリーズを描きながら筆使いの技術を蓄積しつつ学習し、
とりあえず身につけた油絵的技術を使って描いてみたのが「千年の目覚め」です。

といっても、当然使った技術もあるし使わなかった技術もある。

使えるようになりさえすれば使うかどうかは本人の自由。

まあ、絵っていうのは勝手に描く分には自由度がありすぎるからな。

当然技術を持っているかどうかでそれ相応に出来栄えにも差が出てくる。

基礎を身につけさえすればとりあえず、失敗はなくなると思われる。

というか、失敗したままで世に出すことはなくなるんじゃないかな。

ちなみに今回は真面目な人用のアドバイスです。

今後も色々な視点で色々な人用に書いていこうと思います。

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そういえばPCで絵を描く上でペンタブってのはもはや欠かせないと思うんだが、
俺が初めてペンタブに触ったときと他の人が触ったときで感想が酷く違うんだぜ。

まあ他の人ってのは特に絵が好きとか言ってるわけでもなくて、
ただなんとなく落書き程度に描くこともありますよっていう感じの人ね。

そういう人にペンタブを触らせてあげたんだよ。

ちょっと動かしてすぐ「これ無理!」って言われたわ。

俺が触ったときは自由を手に入れたような気がしたんだが、どうも一般的には違うらしい。

まあ人間ってあるものに対して自分の中でやり方みたいなものが確立されてると、
異なる手法を提示されたときになかなか受け入れられなかったりするからね。

Wiiリモコンが良い例ではないだろうか。

まず絵を描くという感覚自体をちゃんと確立できてない可能性もあるよね。

例えば鉛筆なら適当に線を重ねていってさも理想の形のように見せられるけど、
デジタルなら1本の線はあくまでも1本の線として残ってしまう。

今までは何度も重ねて作れてたものが、そのまま下手な線の寄せ集めになる。

そういう現実が直視できず、実際には同じことが起きてるだけなのに、
ペンタブで描くと上手く描けないと機械のせいにしている可能性が微レ存。

大抵この手の人はゆっくり線を引くと手が震えて線がブレるとか言っちゃう人たち。

本当にゆっっっっっくり線を引くとブレないということを知らないのか目を背けているのか。

むしろ技術的な意味では素早く正確な線を引く方が圧倒的に難しいのですが?

その点俺は既に絵を描くとはどういうことかというのを理解しているので、
ペンタブでそれを再現しさえすれば、後は純粋にできることが増えるということになる。

つまり、下手な奴がいくら文明の利器を用いようとも決して上手くなることはないのだ。

上手くなる段階は全部自分で頑張るしかないね。

その点俺のように頑張れる人間にとってはこれはもう喉から手が出るアイテムであり、
実際に触ったときに重要なことは操作性の違いなどではなく、何ができるようになるか。
(そもそも手描きと感覚が違うなんて当り前のことを言っても仕方がない)

着眼点の違いによって感想が分かれることも言うまでもないことだったか。

…これは酷い。

何が酷いって、自分で問題を提起して自分で結論まで行ってしまったことだ。

でも私はそういうことをよくやるのだ。

記事を書き始めた段階ではまだ結論が出ていないことを見切り発車で書いていき、
書いてるうちに結論がポッと出てくるのを期待しているのだ。

2記事目で見切り発車は駄目だと(ry

実際今回のように何らかの形で結論は出てくるし、それで記事が成立するなら良いじゃないか。

そういうことにしてください。

許しを請っていくスタイル。

第50季がとうとうきてしまった…

実はかねてからの計画として、50季をひとまとめとして…

何も、ありません(笑)

さすがにそこまで計画すると100季まで頑張りましょうみたいな嫌な流れが生まれるから。

というわけでこの季節をもってただ5thシリーズが終わるだけです。

が、かねてからの計画として今期ラストでこれまでの季節の総括をしますよ。

先に説明していくスタイル。

各季の最初と最後の記事のリンクを貼り、季節内の特徴的な記事とかも紹介できたらいいな。

そして各季節を一言ずつくらいでくどくならないように評価してみたいね。

これ、実質50季毎にやるって言ってるようなもんですよね。

100季目指して頑張ります!

コイツ、マジで気が早いな…

まあこの企画を決めたのがまだ30季に入るかどうかくらいの頃だったことを思えば、
別に前もって決めておくこと自体は何ら悪くないわけだし文句を言う筋合いもないよな。

問題は本当に50季毎にやるのか、先に枠を作っておいて追加していくのかだが、
ひとまずはこの季節を無事に終わらせないことには何も始まらない。

終わらせるために始まるような季節で大変申し訳ない。

でもその先には、きっとまた新たな始まりがあるはずだから。

拾人さんが綺麗にまとめようとしています。

もう50季だし、綺麗にまとめさせてあげますか?

綺麗にまとめさせる→1番、綺麗にまとめさせない→2番

好きな方を選んでください。

ちなみに2番を選んだ奴は今からいつ俺に殺されてもおかしくないと思え。

言っとくけどフィクションだから通報とかするなよ。

※べ、別に通報されるのが怖いんじゃなくて、いつもやってる流れなだけなんだからねッ!

ネタを仕込むことの喜びを知ってしまったことの代償は大きい。

この季節は文字通り一瞬で終わったのだが、では記事は一瞬で書けたのか?

そんなことはあるはずがない、もしそうであれば既にブログは完全復活しているのだから。

当初のペースに戻すことを復活と表現するなら、今この状態は一体何なのか?

そんなどうでもいい疑問はふと頭をよぎった程度にとどめておいて、
つまりこの季節というのは季節そのものが計画的に行われたある種のネタであるのだが、
これを準備できてしまうことの異常性に一番気付かなければならないのは私自身だ。

私自身の感覚がすっかりマヒしていることは既に読者にも読み取れるところとなっている。

が、しかし私はこのままでいいのかという疑問を心の底から考えることができない。

つまり今後物凄く人生を消費して行われるであろう更新行為を運命づけられている。

…と、錯覚しているのだということはわかっている。

だが乙女座の私にとってこれはデスティネイションだと理解せざるを得ない!

ま、どういうことかと言うと、このブログって誕生日が9月20日なんで乙女座なんですよ。

で、僕も乙女座ですよねー、つまりブログを生かすことで乙女座人口が一人増える的な?

そんな理由のためにブログを更新していたのか、全然知らなかった…

虚言の季節って人だったのか、予想だにせぬ展開だった…

都内各所が阿鼻叫喚である。

あ、ごめん、虚内各所が阿鼻叫喚である。

…これ都内の言い間違いのくだりがないと成立しない流れですよね、DKSだと思います。

君島君、君まだ生きていたんだね。

俺達は、拾人の記憶力によって生きることを強いられているんだ!

ん?なんかさっきからチョイチョイガンダム系押してきてるような雰囲気ないですか?

チョイチョイガンダムって何?

このDKSはチョイチョイを平仮名にするか、ガンダムをアルファベットにすることで回避可能。

最近ではDKSを発見するだけでなく、もはや回避方法をアドバイスできるまでに成長した。

まあただ言わせてもらうと、今回程度のDKSはあえてまとめ記事に掲載するほどではない。

真のDKSと出会った時、彼にまたご登場いただくとしよう。

この短時間に色々ありましたが、話を戻します。

喜びを知ってしまったことが問題なのである。

何が問題なのかと言うと、それを行うことが完全に自分のためになるということである。

人間自分のために行うことって、いくらでもできるんですよ。

人のためにはできないような事も自分のためなら難なくできるわけです。

あと昔話した気がするんだけど、俺の元々の性質としてそういうところがある。

中学の頃生活ノートといって1日の個人的な時間割とその日の感想を書く提出物があった。
(これ結構なプライバシー侵害書物じゃねーか!と今なら言えそうな気がする)

俺がそれを1ヶ月ぶりに提出したときに帰りの会で担任に紹介されたんだけど、
少しして同級生の馬鹿がそれよりも長い期間空けて提出して勝ち誇ってきたわけ。

当然それは担任には紹介されなかった、なぜかわかるかい?

そいつは適当な時間割と「今日はなにもなかった」の連打で埋めてたわけ。

俺はそれを見て何も言わなかったけど「これだから馬鹿は困るんだよな」と心底呆れた。

よくこんなので勝ち誇れるよなと思いませんか。
(?が付いてないのは訊くまでもないと思っていることの表れである)

俺が担任に紹介されたのは1ヶ月分丸々みっちりと内容を書き込んで提出したからだ。

その日の感想も2、3行にわたって毎日違う内容を書いていたし、
時間割も数十分単位で記憶を頼りに再現して書いていた。

数日置きに少し追い付いてはまた離され、また追い付いては離されを繰り返し、
1ヶ月後に完全に追い付いたから提出しただけのことだが。

アイツが見せてきたような内容でいいんだったら誰でも10分あれば再現できるわ。

まあそういう性質の人間なんですよ私は。

この例を挙げるといかに自分が何も成長してないかが見えるようで腹立たしいくらいだ。

びっくりするほどユートピア(似通っているじゃあないか)。

この事実を知ったとき、もはやこの行為に理由なんて必要なかった。

やはりデスティネイションだったか!

でも復活の日はわりと遠いけどね。

ノルマの達成に費やす時間はいくら稼げるか。

稼ぐ対象は当然自分自身ということになるけど。

自分の中でやりたくてやっていたものがいつの間にかやらなくてはならないものになる。

常に変化を求める人間にとっては当り前のことかもしれない。

じゃあ例えばスポーツ選手が日々トレーニングをするように、
自分の目的や利益と直結するようなものではないノルマが発生した場合に、
みんなはどれくらいそれを実行できているのかなという話。

そういうノルマを日々達成しているという実感のある人はどれくらいいるんだろうか。

まずいないだろうという憶測の下に記事を書いています。

で、このブログの記事を更新することは私にとってはノルマです。
(公開するとは言ってない)

よって、日々達成することはできません。

しかしどうだろう、まずノルマであると意識する段階に到達している時点で、
実際には相当レベルの高いことをしているのかもしれない。

ノルマだということを本当に理解しているのならば、そこに向かう力が働くだろう。

例えば1日とか1週間くらい記事の更新が遅れても、
時間が取れたときにそれを埋めてみようという意思が出てくるかもしれない。

あとはどれだけ強い意志を持っているかによって、
この期間が1ヶ月とか1年とかになってもそう思い続けることができるわけだ。

だから私にとってのこのノルマ感は相当強いものだということ。

この記事で本当に言いたかったことは、ノルマの達成云々ではなく、
そもそもノルマだと実感できているものを持っているのかということだ。

これは非常に難しい問題であって、例えば無理に作ることは多分できないわけです。

限られた時間の中で常に行っていくとなれば、
ある程度その人を構成する要素になってしまいますから、逆に下手に手を出せない。

こんなものを無理をして作っても、やはり実行の段階でも無理がくる。

結局ノルマになり切れずに終わってしまうでしょう。

そこに来てこのブログの更新というノルマは、確実にノルマになったわけです。

だって実際に6年以上も続いたんですからね。

そしてここにきて、もう一つ先の段階に到達したのです。

ノルマであってノルマではないという段階。

両極に同時に存在する稀有なノルマ。

絶対に毎日更新するんだけど別に今日は更新しなくてもいいみたいな。

本来なら理解不能のこの文章を理解できる人は、既に私だけではないはずです。

ある程度このブログと関わりを持った人にはわかるこの安心感的な?

それが読者側ではなく私自身の中にもあるということなんです。

私が記事をいずれ更新するであろうことを私は理解しているので、
例えば数ヶ月にわたって記事が書かれていなかったとしても、
いずれそれはちゃんと新たな記事で満たされていくことを私は知っているわけです。

だから確実に達成されるべきノルマではあるんだけど、
絶対に今達成しなければならないノルマではないわけです。

仮にこの保証が無ければ、今達成しないと不安で仕方がないですよね。

絶対的な安心感がなければこれは成立しないんですよ。

何が絶対的なのか。

今日は更新しなくてもいいと思っているのに今更新している自分がいるというこの事実です。

目的でも利益でもないけど、しっかりそこに向かわせてくれるノルマができて良かったね。

そう思ってもらえるとうれしい。

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