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虚節イッター:記事を更新したいお年頃になってしまったようです
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もう手遅れになった企画達。

これまで実はこのブログへの導入を考えながら実装されなかった企画達がいくつかある。

空言の掲示板も本当はもっと早くに導入してにぎわう予定だったが、
完全にタイミングを見失って導入すると同時に死んでしまった。

他には足跡機能もあるな。

足跡は前向きに検討する予定だったんだけども、なにしろ過疎ブログである。

そんなものに一喜一憂するようになったら終わりだし、導入したらそうなりそうだったわけ。

実際導入しなくてよかったと今でも思っている。

導入していたら今どれくらいだったのか気になる部分もあるけどね。

繰り返しますが、これらはもう手遅れになった企画達です。

そもそも最初から準備されていた企画なんて何一つないからねこのブログ。

1季50記事とか1シリーズ10季とか全部更新しながら思いついていったシステムだし。

20記事ごとに解説を入れるのすら場当たり的に思いついたものだよ。

このブログを始める前から決めていたのは1記事目の1行目だけです。

それと日記書いてた頃に1行ごとに改行する書き方が見やすくて良いなと思っていたので、
これは導入する予定だったかな、強いて言えば。

実はその程度なんですよ。

驚異的な速度で色々思いついていくその様は、自分でも天才としか思えなかった()

そもそもブログ始めた時点でまだ日記書いてましたからね。

やりたいことがあればそっちでもできたわけで、当然そんなにこだわりもないわけです。

あと、記事タイトルを漢字2文字にしたのはもともとそういう癖のある人間だからです。

特に伍人目の影響による部分が大きい。

何個かあると言いつつ具体的には2個しか上げてない上に1つは導入されてるという…

まあ記憶にすら残らないレベルなんですよ、思いついても導入されないってことはね。

足跡を実装しなかったことでキリバン企画とかも無しになったね。

もしキリバン毎に絵を描きますとかやってたらどうなっていただろうか。

多分ブログの寿命がもっと短くなっていたと思います(苦笑)

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書きたいことは本当になくなってしまったのかという命題は結構頻繁に考える。


だっていざ書いてみたら1記事2記事書けたりするわけじゃないですか?


出た、「しらねーよ!」と即答したくなる問いかけ方。


ネタがなくなったのではなくて、俺のセンスがとてつもなく鈍ってしまったんじゃないかな。


ちょっとひねって、心も頭も錆びついてしまったなんて言えば格好良いかい?


はい皆さんご一緒にー、「「「しらねーよ!」」」


それにそこは普通「心も体も」というべきところであり、
「頭も」にすると精神的な部分に偏りすぎる気がするが、
まあ今回はまさしく精神的な部分について語っているわけだからこれでいいのか。


…自己完結ですか?


今までもだいたいの場面で自己完結させてきたつもりだけれども。


ここで安定の流れに入ったなと自分で思ってしまったのがもう末期的ですよ。


一人会話形式は確かに持ち味といえば持ち味なんだが、
それを持ち味として押し出してない時にこそ持ち味になってる的な雰囲気を感じていた私。


とか言いながらふとこのおかしなモチベーションの原因に気付いたわけだ私は。


普通のブログではまずあり得ない現象だと思うんだけど、
虚節の記事というのは書いてから公開されるまでに物凄いブランクがあるわけ。


つまり、その期間は本当に誰にも見てもらえないということが約束されているんだよね。


実際に読まれるかどうか以前に、読者に向けて書くという方向性すら失っている状態。


そりゃ文章も自己完結になりますよ。


というか自己完結にしておかないと、ふと公開しようと思い立ったときに未完成じゃ困るしな。


あーなんかこの記事で投げかけようとしていた疑問の答えがわかっちゃったなー。


この記事自体が自己完結になってしまったというオチですがなにか問題でも?


せーの、「「「「「しらねーよ!」」」」」


誰この人たち、なんかさっきより増えてるし。


そしてそれを率いる俺、的な謎集団が一時的に発生した。


ちなみに別にオチを用意して書き始めたわけじゃなくて、書いてたら偶然こうなっただけだからね。


これからはもうずっとこんな適当な感じで続いていくと思うわ…

成せば成る。

晴れやかな気分で仰ぎ見た空は、決して晴れてはいなかったけれど、
そこに虹がかかって暖かな光に包まれているような気分になることができた。

気付けば足元には無数の足跡がまばらに往きかっていた。

これは全て自分のものか、あるいは少しくらい他人の物もまじっているのか。

部屋の中から見下ろす街並みを想像して、今は一番背の低い自分がそこを歩いていた。

だけど一度踏んだところは歩きたくないから、足跡は全部よけて歩く。

難しいけどそれが面白くてここまで歩いてきたようなものだし。

たとえ暗闇でも霧の中でも、そこが帰るべき場所だと思えた。

両手を大きく広げて欲張りに歩き、いくつもの争いを生んだのかもしれない。

いつの間にかそこを歩いていたはずの足が本当は付いていなかったのかもしれない。

この物語は、そんなことなんかには影響されなかった。

自分の意志がそこに入り込む余地があるとすれば、それはその物語を見たいという意志。

いつまでも見続けていたいからどこまでも続くこの道を歩いている。

それはとても辛いことなんじゃないかと思うことがあったとしても、
実際にはやがて枯れてしまう花を好き好んで生けているように、
辛い部分を見ようとすらしていないとても強引な好奇心なんだ。

それに辛ければ叫べばいいし、それすらも楽しむことができるだろう。

実像は鏡の中に、老いて輝く水滴の儚げな彩りによって深くその影を落とし、
酷く荘厳な虚構を織り交ぜ捻じ曲がりながら彼らの全てを嚥下することを目指して、
やがて温かな風に包まれる仄かな灯りを燈し、己の存在を刻む為の墓標を築くだろう。

そのための季節がここにある。

つまりここは、新たな季節。

それこそが、いつもの季節。

by拾人@フィクション大魔王

人にものを教えるために心得ておくべきことを考えてみた。

それは、相手が「知らない・できない・わからない」ということを理解することだ。

例えば1+1は2になるのだが、これができない人間もいるのかもしれない。

知識というものは、結局この基本的な部分からどこまで専門的になるかという、程度の問題だ。

その段階において、まだ自分より専門性の低い人間も、逆に高い人間も無数にいるのである。

そしてその段階はそのものをどれだけ理解するかによって上がっていく。

例えば平行四辺形の面積の計算を例に挙げてみる。

まだ図形に触れたばかりの者がいきなり面積を求めようとすると苦労するかもしれない。

しかしそれを図形的にとらえ、三角形の片方を切り取り反対側に持ってくればこれは矩形となる。

そう理解している者はすぐさま矩形の計算を行うことができる。

台形の面積も、はじめは(上底+下底)×高さ÷2と公式として習う。

しかしこれは(上底+下底)÷2で平均値を求め、そこに高さを掛ける、矩形の計算である。

理解することで効率よく計算が行え、やがてその計算自体の速度も上がっていくことだろう。

それがものを理解するということだ。

超人的な速度の計算も、突き詰めていけばきっとこの過程を経ているに違いない。

さて、そこにたどり着いていない人が目の前にいて、周囲の足を引っ張っています。

あなたはどうしますか?

こんなもん常識だといっても過言ではないような事ですよ?

できない方が悪い、そういう考え方もあるでしょう。

しかし、人にものを教えるというのはそれでは駄目なのです。

あなた、その人に直接自分自身でその知識を教えましたか?

教えてない?

じゃあその人ができるなんて保証は何処にもないじゃないか。

自分が教えもしていないことを、できるのが当り前だなんてよく言えたもんだ。

知っている側に許される最初の行為は「教える」のみである。

これを除いて行動を起こす者に物を教える資格なしッ!!

…見て盗む業界で働いてる俺がよく言うよ(苦笑)

まあ、俺が教える上で心得ることだから他の人は別にどうでもいいや。

正しい箸の持ち方ができるようになったんですよ。

しかも多分できるようになったとかじゃなくて、完全にできるようになったという確信がある。

この記事は、まだ正しい持ち方ができているかハッキリしない人に向けています。

既に正しい持ち方ができる方に対してのメッセージはここまでです。

さて、本当に正しい箸の持ち方ができると、常にできているか判断できるようになるのです。

なぜって箸の持ち方には判定基準が多いし、それが感覚でわかるからだよ。

よく豆が上手くつまめるとかいうゆるーい判定法があるじゃん?

あんなの他の持ち方でもできるんですよ。

むしろそれだったら俺の持ち方も正しいとか言う馬鹿が出てくる始末よ。

しかし、それらの持ち方にできないことがちゃんとあるんです。

その中で一番わかりやすいものが、その持ち方のまま食べ物を切るというヤツです。

これができなければ、その持ち方は絶対に正しくないんだ。

俺は前の持ち方ではこれができなかったから、ナイフのように切るしかなかった。

でも正しい持ち方ならそれも余裕すぎてワロテマウンテン。

何しろこの持ち方、物を掴む力が尋常じゃないんだ。

そして本人なら絶対にわかる判断基準が、持てるようになったときの「しっくり感」である。

初めて口笛が吹けた時くらいの「あ、今できるようになったわ」感がある。

初めて肩を使ってボールを投げた時くらいの「あ、全然感覚違うわ」感がある。

何度かやっていたら慣れるとかではなく、できたその日からいつでもできるようになるのだ。

そして豆どころか米の一粒までも自由自在につまめるようになる。

詳細なポイントとしては、下の箸が動かないことらしい。

まあ実際あそこまでガッチリ下の箸を固定する持ち方だと動かせるわけがない。

それゆえに下の箸を固定する角度が何よりも重要であり、この時点で勝敗が分かれる。

感覚的には親指を45度くらい傾けたときに水平になる感じかな。

固定には薬指の上側と親指の下側、人差し指の付け根から下の部分を使う。

上手く出来てる人はもうこの時点で相当なガッチリ感を感じているはずです。

ここに動かす方の上の箸を親指から中指までの3本で持ってくるスタイル。

さらに他の持ち方との決定的な違いがここで顕現する。

この正しい持ち方というものは、他の持ち方を淘汰していくのです。

もう今までどうやって箸を持っていたかがわからなくなってきている自分がいる。

20年続けた持ち方をここにきて忘れる、そんなことがあるんだろうか、あるんです。

だって正しい持ち方ができるとその持ち方で箸を持つのが楽しくて仕方ないからな。

昼飯食う時とか飯を食うこと自体よりその持ち方で箸を持つことの方が楽しみなくらいだよ。

正しい持ち方で持ちたい欲みたいなのが出てくる。

確かにまだ多少テクニカルなことをやってるような感じはするけど、
正しいようで正しくない持ち方をやってる時よりははるかに簡単に持てるからコレは。

この記事を読んでもできない!という人は直接教えてあげるから俺の家までこいよ。
(そもそもこの記事を読んだらできるようになるとは言ってない)

どこか分かればな。

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