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なんとなく気づいてはいるんだけれども情報は一切入ってこないなんて。
そんな局面に対峙した時、人は一体どうなってしまうんだろう。
という、そこはかとなく面白そうな取り組み。
虚言と妄想がそれらを形作っていこうとしている。
今まさにそれらが組み上がっていってるのが現在の虚節なんですよね。
それはもう、ただ研究室にこもって本読んでましたとか、この先はそんなんばっかですよ。
待て、それは裏で動いているものなどなかったと初めから宣言するようなものだぞ。
今回のテストが上手くいかないじゃないか!
テストで重要なのは、何も点を取ることだけではない。
問題の解答を導き出そうと悪戦苦闘するそのお前の心の中にこそ、
今私がやろうとしていることへと辿り着くためのカギが隠されているのだ。
文面だけ読めばいかにももっともらしいと思わんかね?
それ以前にテストの意味が違うのだよ。
…さっきからお前は何を言っているんだ?
いや、産地直送タイムだったものでつい。
というわけで、今回はこの「産地直送タイム」について触れてみたいと思う。
(若干初期の記事のようなノリで楽しい拾人であった)
何を隠そうこの産地直送タイム、読者に低クオリティを許容してもらうための用語である。
しかしどうだろう、これを言われたからといって、あなたは許しただろうか?
むしろ軽い怒りのような感情が込み上がっては来なかったか。
これはかつて、私自身が初めて産地直送タイムと発言したときに感じたものでもある。
要するに、全然言い訳として使えねえんだよこの言葉。(本日の言いたいこと終了)
効果が低すぎるというか。
誰かこの言葉に代わるもっと破壊力の凄いの知りませんか?
それでも今後も使うんだけどな多分。
言っとくけど、本当に本当の産地直送タイムは、拾人でも一目見て即行削除するレベル。
ああ、でもそれ言っちゃうと公開してる記事はそれなりにマシだと思ってることになるし、
別にそんなこと思ってないけど、真の産地直送タイムよりは確かにマシだし…
ああああああああああああッ!!
とまあ、こういうやり取り自体が、産地直送タイムなんですな。
という終わり方は嫌だったので、この1行が発生したのであった。
やはり絵を描くことに対するモチベーションが低下していることが原因であろう。
というよりも、波がいつにも増して激しいと言った方がいい気もするのだ。
ここ最近ではよく見れば本当にいろいろなことが起こっているわけだが、
なんとなくそれをスルーしたまま一日を終えてみたりだとか、
べつに忙しい用事が重なる日なども勿論あって、記事も更新できない日が続いたりする。
私の中では更新と公開は別扱いなのだがそれで良いだろうか?
そうかと思えばそんな無関心を振り払ってでも記事にしなければならない出来事が起きたり、
ほんのちょっとしたことが、まさに鍵穴にはまるような形で記事として完成したりもする。
もはや記事を更新する確固たる理由はなくなっているのだろうか?
これが絵に対してでも、全く同じように当てはまってしまっている期間。
それが、現在のこの長期更新停止を招いてしまっているのではないかと推測した。
ちなみにこの記事を書いているのは2011年8月17日である。
といっても、そんな絶望的なレベルで記事が書けていないのではなく、
なぜかこの日だけ埋まる気配がなかったので、仕方なくタイムスリップしてきたというわけだ。
ある程度書きたいことをストックできている時期もあった。
しかし、その程度では動けなくなってしまっていた。
確固たる理由と言うのは意外にも簡単なもので、
自分の中で書くことが必要不可欠だからといった根本的かつ気分的なものだった。
こう書いてみてわかるが、確かにこれがなくなると記事を書くことはできない。
この記事だってその状態が継続した中に在って書いているのだから、
たいしたことを書きたいわけでもないことは明白である。
例えるなら、作家が何かスキャンダラスなことをしでかして一躍有名になってしまい、
それを好機と言わんばかりに暴露本を書くようなテンションに陥っているのである。
更新できていないこと自体を記事にしてしまうと言えばわかりやすい。
それでもネタになるなら儲けものといったところだ。
そうはいっても、さすがに今回の復帰というのはそう優しいものではないだろう。
もはや基盤を完全に失ってしまった。
コミュニティに頼った形でのブログでなかったことは今回の事件にとって幸いしたが、
今後は妄想カテゴリーの追加もあって、より自己満足な形となっていくことは間違いない。
なにより、もはや新規読者を獲得する勇気が私に残されていないのである。
別に誰が見てもいいと思っている部分は変わらない。
ただ感情の中で相手に配慮する領域が肥大化してきたというか、
自分から勧めたブログにこんなことが書いてあったら嫌だろうなという考えがとにかく強い。
ブログを始めた当初から思っていたことではあるが、10人もの性格を持つと言うように、
テンションの変化・ものの見方の変化が本当に激しい。
それこそブログ開設1ヵ月後には自分の記事を読み返しては冷や汗をかいていた。
やはり記事を書いた性格とそれを読むときの性格が一致していないと、
相当な酷評側の客観性が発揮されてしまうのである。
こんな状態で続けていくことができるのかと本気で心配したものだった。
「当ブログ的にはオールOKです」の一言にどれほど助けられてきたことか。
世間にはやはりどんな人間に対してでもそれを否定したがる人種がいて、
彼らと対峙したとき、このブログはまさに弱点として機能してしまうことも多かったように思う。
そんな人が本当にいたのかどうかは諸君らが悶々と考えるべき部分である
それらのある種の呪縛から解き放たれたことは、今回の事件の良い意味での副作用か。
今回はここまでで終わりにしたい。
さすがにこんな昔の記事内容を確認して新たな記事を書くのも面倒なので、
内容が周辺の記事と重複している危険性も在り得るという観点からの判断である。
最後に、全ての記事は、公開する時点ではもちろん内容の確認作業は行うつもりである。
1・2・3月は過ぎゆくのが特に早いような気がしていたが、別にそんなことはなかったらしい。
夏休みだってまだ終わってほしくないとみんなが思っていたということは、
それだけ夏休みが早く終わってしまうと思っていたということですよね。
1ヶ月以上ある休みがまだ続いてほしいなんて思うってのはよっぽどですよ。
それだけ人間はゆったりした時間の中で生きていきたいと思っているんでしょう。
もはや休みなんてものがどうして存在しているのか疑問視するレベルの僕ですが、
当時はやはり、休みというものはいくらあっても足りないといった感じでした。
それはおそらく、それだけやりたいことがあったからなんだと思いますね。
絵に関してだけでも相当やりたいことはあったんです。
あんな絵が描けるようになりたいだとか、こんな技法が使ってみたいだとかね。
今ではだいたい自己満足程度にはできるようになってしまった。
クリアしたゲームを何度も遊ぶというのは、結構楽しみより面倒臭さが勝ってしまったりして、
一時はあれほど熱を出したのになぁという展開もまあ無くはないわけです。
そのような状態にあってもなお、絵を描き続けるということ。
これが自分の中で苦行にならなかったのは、唯一の才能だったのかもしれない。
しかし苦行にはならなくても、技術が成熟していくにつれ、自身の描いた完成形に近づくにつれ、
やがてそれは創作ではなく作業になっていくのではないですか?
毎回同じことの繰り返し、絵の完成度は上がっても、機械が作業しているみたいな感覚。
そして出来上がる写真の劣化版。
そういった理由から、画家は抽象画に走るのではないでしょうか。
時間をかければいいものが描けるとは言いますが、実際に時間をかけられる人間は少ない。
実はそのあたりに真理があるのだろうか。
時間をかけた絵なら、一つ一つは作業であっても、絵自体は作品と認識できないか?
あくまでも重要なのは自分自身の中での位置づけ、捉え方。
そこに面白味があるからこそ、続けることができるのでは?
それがなくなった作業に残りの自由時間をつぎ込むことは、やめた方がいい。
それでも今まで絵を描き続けてきたなかで、人間が出来上がってしまったんですな。
描かずにはいられないという中毒症状にも似た意志がどこかにある。
好きかどうかという次元を超越した感覚。
案外その境界を飛び越えることは難しくないが、逆にいえば故意にというのもほぼ不可能。
その道に入るかどうかという選択は(人によっては)故意なんですけどね。
最期まで乗り気じゃないまま終わることだって人生の中にはいっぱいある。
乗り気になれることがあるってのは、実は人生の勝ち組になれる権利を貰えたようなもんかも。
それを見つけることができなくても無気力ってわけじゃないんだが、
少なくとも見つける努力が不十分なのか、絶望的にド下手なのかだと思う。
好きなことがあるならそれをやればいいというだけの話だからだ。
それがいつの間にかそこにあったのは、本当に幸運だったのだなと今でも思っている。
こんなに時間のかかる趣味だけど、それにかける時間は多いほどいいかもな。
そしたらお前、1月2月なんて言わず、1年2年があっという間じゃないか?
結局時間なんて足りないものだよ。
「時間って何だ?」って聞かれたら「絶対に足りないもの」って答えることにします。
9月ももう終わりか…
研究室でパソコンに向かいながら、コーヒーなど口に運びつつ、
さりげなく窓辺に視線をやると、坂道を寒そうに歩く二人組を見つけた。
そういえば今朝はいつもより少し寒かった。
そろそろ手袋の用意が必要か、などと考えつつ、画面へと視線を戻す。
この生活ももう相当な期間になる。
こうしていつも当り前のように朝早く来て、夜遅く帰るのだ。
仮に一日のうちこれだけは睡眠時間を確保しなければならないという法律があったとしたら、
ここのところ俺は法を犯し続けていることになってしまうだろう。
しかし、人間どんな環境だろうと、それを受け入れることで案外早く慣れてしまうものである。
少なくとも今は眠ることなど考える必要がないほどに目が冴えていた。
今回の仕事は決して強制ではない。
という名目ではあるが、強制されているようなものだ。
しかし逃げようと思えば逃げることもできる程度のものだった。
それをしようとしなかったのは、自身の中に眠る善意の仕業か。
いや、仮に逃げることを選択していたとしても、絶対に事態は悪化する一方だろう。
安全の約束された自室の中でさえ常に仲間の冷たい視線に苛まれるかのような、
そんな暗く、重い一日を延々と積み重ねていくことになるに違いない。
先々の展開を予想することに関しては少しばかり自信がある。
つまり現状では今とっている行動こそが最善の選択なのである。
と、自信を持って言い切れないところが、こんな文章を書いてしまう所以なのだろう。
そう言っている間にも横で黙々と仕事を消化する仲間がいる。
自分ばかり現実逃避に時間を割いているわけにもいかない。
といっても当然すぐさま作業に戻るわけもなく、少しの間だらだらと記事を読んでいたのだが、
さすがに毎日同じようなことの繰り返し、飽きるのも早い。
程なくして作業に戻ったのであった。
しばらくして、あることに気付く。
ここ数日仕事に没頭していたせいか、メールが来ているのに気付いていなかった。
メールチェックなどパソコンをつけてまずやっておくべきことではないかと自分を責めつつ、
願わくばせめて今日来たもので、さらに言うとどうでもいい用事であってほしいと願いながら、
メールを開いた。
…どうやらこんなことをしている場合じゃなさそうだ。
このメールにはまだ誰も気付いていないらしい。
なぜなら、こんなものを見たら黙っていられるはずがないからだ。
そう確信できるものが、そこには書いてあった。
今回の第一声を飾るのは俺の仕事になった。
「おい、みんな…緊急出動だ!」
ちょっと更新停止がとんでもないことになっていますが、
これは私自身にとってはそれほど大したことではないんですよというお話。
このブログも一時期はそれなりの知名度を(限られた範囲で)持っていたのですが、
最近では隠れ家的な立ち位置になってきたなと思っています。
もちろん個人的にはそちらの方が好ましいような気がしています。
(簡単に言うとその方が話しやすいような内容が多いので)
ところがここにきてこの長期にわたる更新停止です。
今までこのブログを読んでいた人達からも最近は見ていないという話をよく聞きます。
私は「ふーん」と思いました。
なんかバカみたいなことを書いてますが、強がりとかそういった意味での発言ではないんです。
どういうことかというと、その発言の前後で私の状況は何も変わってないということです。
本来なら変わるんだろうと思います。
そう、仮に僕がブログを始めるまでの間日記を書いていなかったとしたら。
おそらくですが、ブログの読者の中に日記の読者はいません。
(日記側に一方的なリンクがあるのでもしかしたらいるかもしれない)
このブログも開始当初は副業という形で日記とは独立した存在だったのですが、
現在ではブログ一本に絞ることによって続編的な位置づけに変化しています。
ということは、別に「ずっと見てた人が見なくなった」のではなく、
「その人がある期間だけ見ていた」という認識が僕自身には可能なんですね。
こうなってくると途端にこの現象自体が凄く軽いものになるような気がしてきませんか?
そこから導き出された反応が「ふーん」だったというわけです。
別に今後またその人が読み始めることがあるかもしれないし、ないかもしれない。
実際、その程度のことだと思います。
ここでふと思ったのですが、私はこのブログ自体を絵と同じ感覚で書いている気がします。
これは上記の文に非常に強い根拠をもたらすのではないでしょうか?
即ち、そもそも「常に誰にも見られてないと思って書いてる」ということです。
私は絵を描くとき、完成後その評価を委ねるのは自分自身だけのつもりで描いています。
だから他人から褒められようが素直に喜べないし、けなされようが本気で怒れない。
この文章、褒められようが、けなされようがをそれぞれ見ていようが、見ていまいがに変えると、
そのままこのブログに対する私の考えになっているような気がします。
ブログの方が誰かに見てもらいたいという度合いは強いように思いますけどね。
全く同じではなかったから、今まであまり結び付けるようなことはしてこなかったのだと思います。
多分この手の思考パターンは、零人目の性格なんでしょうね。
現に私は10もの性格を持っていながら、他人から評価されて喜びそうな性格はあまりいない。
陸人目だけと言ってもいいかもしれませんからね。
この傾向は零人目の性格を如実に表しているといえるように思います。
そして絵とブログに共通することは他にもあるんです。
誰も見ていなくても続けることが自分の中で保障されている。
これもその保証が消滅する可能性はブログの方が高いです。
ただ自分に記事を書く気がある限り、誰も見ていなくても書くのをやめることはないですね。
内容に関してもそうでしょう。
誰も詩には興味がないと言っても自分自身がたまには書きたいから書くみたいな。
僕自身、世の中他人からの評価に依存し過ぎている人が本当に多いと思っているので、
進んでその対極に身を置きたいという意志はあると自覚しています。
よく言えば自分を持っている、悪く言えば恥知らずでしょうか。
ただこの性格の厄介なところは、既に書いた通り他人の評価に影響されないこと。
これ、自分の言いたいことを言う場合には非常に役に立ちます。
でも仮にそれが自分にとってマイナスになっていたとして、そこに指摘があっても気付かない。
だって常に他人の評価は聞く必要がないんですから。
そこは意識的に注意深く判断していくしかありません。
こういう性格を持っている人が社会で生きていくためには、空気を読むことが必要不可欠です。
手がないと物が上手く掴めないっていうレベルで必要なものだと思います。
だから空気が読めるとよく言われているのは、過去の経験から判断して行動しているだけで、
瞬時にその場の空気を読んで行動しているわけではなかったりします。
自分の性格って結構論理的に分析できるものですね(笑)
この手の話っていつまでも続けてられるので本当に考え出すと止まりません。
むしろずっと考え続けていられたら幸せだと思ってます。
まあ本当に無駄話になるので今回はこの辺りで。
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