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虚節イッター:記事を更新したいお年頃になってしまったようです
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お誕生日おめでとうございます!!

今日は記念すべき虚言の季節の誕生日ですね。

もう今年で3歳ということで、長いような短いような3年間でございました。

この2日後には拾人の22歳の誕生日も待ち受けているということでございますが、
ここはひとまずそのことは忘れて、このブログの誕生日を祝いたいと思います。

しかしながら、半閉鎖状態でのご挨拶となってしまったことに関しましては、
後悔せざるを得ませんね(公開はできないんですけどね)。

だがこの記事の意味合いとしては、ブログの作者である俺がブログに対して祝うという、
一般常識からは逸脱したおかしなイベントを事細かに記録しようという、
一説によれば「チラシの裏」と呼ばれる行為であるそうなので、
ここはひとまずそのことも忘れようと思いました。

では僭越ながら、皆さまにブログの長続きの秘訣をお教えしようと思います。

まず第一に、更新ペースは自分自身に合ったものでなければなりません。

更新ということを言葉にしてしまうこと自体も本当はよくないと思われます。

ブログの更新と言えばついつい仕事のように聞こえてしまいがち。

本来は自分が誰かに見てほしい文章、紹介したいものなどを書きたいときに書く、
それがブログというものの存在価値なのでございます。

だから更新が多いブログの方が良いだとか、そういった捉え方をするのは間違いでして、
自分がやりたいことができていればそれだけでブログを自分のものにしているといえるのです。

第二に、「用に敵えば宝なり」という言葉がございます。

どんなつまらないものでも誰かが読んで少しでも楽しんでいただけたのであれば、
それは立派な記事であり宝物であるということです。

つまり、書く前から記事にそれほどクオリティを期待するのはよくありません。

所詮は1記事でしかないのです。

その人にとって面白いことが他人にとって面白いとは限らないように、逆も言えるのです。

人間というのは自分と他者との違いに面白さを見出す習性もありますから、
よりその人自身の人間性が出ている記事などは、本人にとっては何でもない記事でも、
他人から見ればそれだけで十分面白い記事になっているかもしれない。

そのように他者の反応など千差万別で気にしていても仕方ないのですから、
ここはひとつそういったことを気にするのはやめて、気楽に更新してみてはどうでしょうか。

第三に、人気が出るブログにはセオリーというものがあります。

上記の内容には同意できるものの、やはり読者は多い方が嬉しいというもの。

読者を少しでも増やしたい、そんなとき、セオリーを知っておくかどうかはやはり大きいようですね。

セオリーについてはここで紹介するまでもないのですが、
簡単に言えば画像を沢山貼ったり、絵文字を多く使ったり、文章をカラフルにしたり…
読んだ人がより楽しめるように書くのが良いようですね。

読者へ語りかけるように書くのも親近感が持てて良いようですよ。

結論:本当に俺が言うようなことではなかった。

何一つ実行してなかったわ。

ということになってしまうのでこのブログ流に長続きの秘訣を一言で教えてやる。

才能だ。

以上、本当にお誕生日おめでとうございました!
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私自身のマンガ・アニメに対するスタンスという、どうでもいいお話。

人間というのは昔から現実を超えたところにあるものを好んできたから、
昨今のバトル漫画における謎の展開もこの観点から見ると非常に納得がいく。

現実を超えたものというのは例えば魔法とか、モンスターといった類のものだが、
特に日本においてはこれらのネタには事欠かない。

昔から妖怪などに親しみも深かったし、無機物にも度々生命を与えてきた。
(擬人化という文化も根強い)

また、人間はほぼ生態系の頂点に君臨していると自負している側面はあるのだが、
その立場にあってなお「本当は」自分たちより強いとする存在を設置したがる。

簡単な例えではワニやサメなどがそうで、「武器を使わなければ」人間は勝てないとする。

実際には道具でも何でも使い放題であり、それが「人間の持つ攻撃力」である。

本気で向き合った両者の間にあるのは、本当に一方的な光景なのである。

さらに身近なもので例えるならば、腕相撲などが良い例になるだろう。

負けが決まっている側というのは、自分の全力をかけて相手を倒そうとする。

その一方で、勝ちが決まっている側はどうだろうか?

ある程度の力で両者の腕が釣り合った状態を作れたとする。

このとき負ける側は既に全力であるから、もはやどうすることも出来ない。

勝つ側は簡単である、そこにほんの少し力を加えてやればいい。

そうすれば時間に差はあるものの、いずれ負ける側の腕は崩れ落ちるだろう。

本当は勝つ側が全力を出す必要などないのである。

マラソンも(厳密に言うと違うが)似たようなもので、
一度前に出た走者は以降相手と同じペースを維持すれば全速力でなくても抜かれることはない。

何が言いたいのかというと、両者がお互いに倒し倒されを繰り返すような状況は、
よほどのことがない限りまず発生しないということだ。

ところが最近のバトル漫画はといえば、まさにこの展開の繰り返しとなっている。
(全てのバトルマンガというより、この文章から真っ先に浮かぶ某マンガを指しているといえるか)

人間がワニに素手で立ち向かっても全然攻撃が効かない。

やがてモリで突こうとするが今度はワニも反撃、それを噛み砕きさらに襲い掛かる。

喰われそうになった人間が隠し持っていた銃を取り出し、射殺するといった具合である。
(実際にこんなことをするのはかなりの馬鹿だ)

ある意味主人公には勝ちが約束されているが、
その前提を持ってしても圧倒的な実力差を持って敵を粉砕する場面はほとんど描かれない。

ここに最初に言ったような人間の本質的なものが垣間見えるというわけだ。

・人間は現実を超えたものを求めるから、現実をそのまま描いても面白くない。

・本当は自分の方が強くても全力を出さない状態だと負けてしまう相手を置いておきたい。

昨今のバトル漫画家はこの本質を真面目に実践しているだけなのだ。

ところが彼らに対し、半ば侮蔑とも捉えられる視線を注ぐ者もまた多い。

現実を超えたものが面白いのは判るとしても、表現法が少し単純すぎないかというのだ。

ある意味ではこの人たちは、空想の中に現実を見ているといえる。

現実を超えたものは確かに面白い。

それをわかった上で、もはやそれ自体ではなく、それをどう表現するかを見ている。

結局人間はどちらを求めているのか判らなくなってくる。

例えば批判する側が「あまりにも都合がよすぎる」と言えば、
擁護する側は「奇跡も何も発生しないものはそもそも物語として描く必要がない」と言うだろう。

すると議論はいずれ表現方法の話になり、
物語そのものとは少しばかり違った位置での対決となる。

例えば物語のある場面が凄かったという意見に対してその表現方法が…と返すのは、
まるで現実と空想の間を行き来しているような議論である。

このような場面を幾度となく見てきたが、どちらの言い分が正しいのだろうか。

私にはそれが判らない。

私自身は例えば日本刀が喋るというだけでも面白さを見出せるような人間だが、
(妖怪の絵なんて物語がなくてもそれを見ているだけで楽しいじゃないか)
そういったものをひねりがないと一蹴する側の言い分にも共感できる部分は多々ある。

超能力自体には目がなく、何度奇跡が起こったとしても疑問を持つことすらないが、
一方的(現実的)な戦いにもまた惹かれる部分はある。
だからNEEDLESSを面白いと思えるのか、納得。


私の個人的な考えを言わせてもらえば、
何らかの奇跡が起こるにしてもたった一度きりの奇跡についての物語をなるべく短く書けば、
話もよくまとまってそれほど批判されることもないのではないかと思っているのだが、
実際のところ好きな作品は長く続いてくれることを望む読者も多いのでこれも定かではない。
(当然作者が何を描きたいかによっても左右される部分はあるだろうが)

そんな世界を彷徨っているうちに、自分がどんな主張をすればいいかわからなくなる。

現代においてはありがちな話ではなかろうか。

ただ私はどんな話であっても、作者自身が次の展開を作っていく原作は面白いと思うし、
ほとんどの場合新たな設定の追加がなく、既存のキャラをどう動かすかだけという、
ある意味現実の垣間見えてしまうアニメオリジナル編はあまり好きではない。

手段は問わず、より現実を超えたところにあるものを求める習性の強い人間といえるだろう。

だからこそアイドル育成ゲームをロボットアニメにしてしまうような、
アニメの原作無視ともいえる展開には逆に惹かれるものがあるのだ。
(まあアイドルマスターゼノグラシアは一切見てないんですけどね)

一ついいことを教えてあげよう。

みんな誰かがちょっと恥ずかしいことを言った時に中二臭っていうけど、
その中二臭っていうものは日常から脱却しきっていないことによって発生しているんだよ。

つまり、中二と言われる範囲ならまだ現実の中にいるというわけだ。

というわけで具体例を挙げます。

…あー、マジ疲れたわー。

ここ最近フォリオ火山とかケベス運河とか散々回ってんのにどこにもフーチンがいねぇの。

アイツ出てこなかったら俺存在価値ないからね。

あの上質な毛皮をキリシア姫に差し上げることが俺の唯一の生き甲斐なのによ。

このままじゃ生き甲斐どころか明日酒場でグラントと一杯やる金もねえっつーの。

先月妙に羽振りが良かったからついマンマウェートまで遊びに行っちまって。

まあ、あんなとこ行ったら金なくなって当たり前だって思うかもしれんが。

このまま家に帰ってもミルダの怒鳴り声が待ってるだけだもんな。

昔はアイツも可愛くて良い奴だったのによ…

っていうことですよ。
(上記のような文章を日記レベルで毎日のように書いてると思ってください)

これはもはや中二どころではない。

「コイツは何を言ってるんだ…?」ってなる人もいるでしょうが、
彼らも当然最初に抱く印象は中二病ではないはずです。

そもそも中二病というのは中学二年生という現実に基づいた定義ですからね。

でも上の例だと、最近妙にオンラインゲームやら狩りやらが流行ってるから、
見る人によっては何かのゲームの話なんだろうなと思ってしまう人がいるかも。

その辺は切り離して考えてくださいと言うほかないですが、
こう言われて尚それが無理な貴方は、ある意味僕なんかより相当ヤバイかもね(笑)

まあ、私はよくこのブログなどで中二病だと公言することがありますが、
その発言には「まだ常識は常識として持っている」という主張も含まれていますよというお話でした。

もはや足が痛いくらいの感想しかない。

右手にはしっかりと万札を握りしめているというのに。

所詮は下々の者たち。

梅雨は未だにのしかかってくるのか、今は隠れているとしても。

筆も全く進まず、学ぶもまた遠く及ばず。

…なるほど、これが5月病か。

鳥取では他の県よりも2ヶ月ほど季節が遅れてやってくるからな。

しかし何もしていないというわけではないにも拘らず、作業効率は落ちる一方。

①ネガティブフィードバックZERO状態。

②脳内ウィーン会議状態。

①+②=最強ッ!!

しかも結局何もしていない時間というのは、本人の記憶にも残らないもので、
最終的になんで作業効率が落ちているのかイマイチ解明できない。

この状態は破滅へと向かう流れですね。

もはやこんな言葉をいとも簡単に唱えることができるレベル。

でもね、それでも一応体は前に向かってはいるんです。

何をどれだけしていると具体的に言うことは確かにできないかもしれないが。

たまには偉大なる力のせいにしたくもなる今日この頃です。

そんなわけで。

気まぐれな天空(と書いてそらと読む)に共振するかのように、
記事の内容があっちこっち、まあ深夜だから仕方ないかな。

こんな夢心地もあるものかと、内心驚いている自分もまた気まぐれか。

そこまで感情的ではない本来の僕には、この程度のことはまず記憶には残りません。
(当然感情的な僕もいるわけですが、少なくとも今はそうではない)

それでも足は痛いよ。

あと数十キロ、私はこの足を引きずって、尚も歩き続けるのだろうか。

早く来い来いランナーズハイ!

わりと真剣なパターンの素敵発言であった。

余裕の無い時だからこそ、妥協を許すな。

かつて、完全に葬り去られた季節があったという。

彼らの時間は、あるいは光のような速さで、あるいは音のような速さで、
あるいは歩くような速さで、それぞれの目に映った。

しかし、真に苦汁を舐めたのは、歩くような速さの者たちであった。

それらは、増殖を決して止めることがない。

彼らの脳内に巣食う癌細胞のように、一日、また一日と増える。

やがて記憶からは抜け落ちたとしても、這いずり回った跡は残る。

宿主もそれなしでは新たなそれらを招き入れることができないからだ。

そんなことよりサッカーやろうぜ!!

ワリと真剣に思う、最近記事の質が全然安定しなくなったなと。

もちろんシリーズ物の企画なんかも増えたからその辺は安定してるんだろうが、
日記系記事と虚言系記事のテンションの差が激しすぎるような気がする。

そこで、今シーズンでは、これらの間を取り持つような記事を増やしていきたい。

日記50%、虚言50%みたいな記事。

これが増えればカテゴリ「虚言」の持つ(作者自身にとっての)意味も少しはわかってもらえるかも。

ストレス発散とか気分転換と言ってしまえば言葉としてはそこまでですが、
実際にその過程を踏まえて説明することにより、理解の幅も広がるというものです。

まあ、虚言自体が大きなくくりで言えば設定変更のようなものだということですね。

どんな記事になるのか、虚言といえどもそのほとんどは実際の出来事からの変換である。

この傾向に沿って流れを細かく見ていけば、その変換過程にはいくつかの段階があり、
その中でもより日記に近い側に着目すれば、中間的な記事が書けるというもの。

ようは日記から虚言になる瞬間くらいの内容を記事にしていくということです。

一番わかりやすく言えば、この記事みたいな記事ってことかな。

私の中では日記も虚言も同じ世界に存在しているわけで、
そこからカテゴリというものを使って要素を引き抜いているだけにすぎないんですね。

この辺りはおそらく他の人とは感覚が違うので、今回のように説明しないとわかってもらえない。

大概の人は、虚言は裏世界の存在的なもののように認識していることでしょう。

それは違うんですよということを教えてやる。

…最初のうちは良いんだよ、勢いがあってさ。

※フィクションのため、この季節自体も闇に葬られる可能性があります。

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