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死ななくなるだけでいいなら方法は簡単だ。
今すぐにでも死ねばいいんだ。
殺されなくなるだけでいいならそれも簡単だ。
今すぐにでも死ねばいいんだ。
その他の色々な問題も、だいたい死ねば解決する。
じゃあなんで一度死んだ魂はこの世に戻ってくるのかね?
死んでだいたい解決したにもかかわらず、記憶を消してでも戻ってくるわけ。
それもみんなよ、おかしくない?
つーことはつまりアレだ、死んでる間は自分の意思で何もすることはできないんだ。
何もすることができないからまたこの世に戻ってくるのも強制なわけだ。
死んでも何もできず記憶も消されてまたこの世に戻されるだけ。
この馬鹿馬鹿しさの存在を認めることができるかどうかは人の生き方を変える!
だってもしこれが本当なら生きてた方がいいじゃない。
…なぜみんな戻ってくることが当り前かのように話を進めているのか。
それは、彼にとっても希望だったのかもしれません。
だって死んでそれで本当に全てが終わるのだとすれば、悲しいですから。
反論したとしてもその先により良い真実が待っているとは限らないよね。
だから生きたい奴は生きたい奴用のシナリオを作ればいいし、
死にたい奴は死にたい奴用のシナリオを作ってそれを信じればいい。
そうすればすべては自己責任だ。
自己責任なはずなのにそれで死ねば社会的には無責任な奴になってしまう。
何人をも納得させる本物の真実は、常識はどこにも無い。
だから、俺は嘘の道へ往く!
私は男ですって言ったら中には否定してくる奴がいるのに、
私は女ですと言えば100人が100人否定してくるわけよ。
実際にはそんな実験はしてないけどわかりますかこの感覚?
私、空飛べるんですよ、フフフ…
私、世界一絵が上手いんですよ、フフフ…
私、炎を吸収してパワーアップするんですよ、フフフ…
まあご覧の通り、語尾にフフフ…って付くのが嘘なんですよ、フフフ…
ここにはおかしな奴しかいねーな。
完全なネタを取るのか、日常へのアレンジとするのか、難しい問題です。
ネタとして完成度を上げてもいいんですが、それはもう作りものという目で見られます。
実生活で起こったことを面白おかしく脚色してみても、
それに他人が共感してくれるとも限りません。
完全なネタに走りつつもそのネタを閃いたきっかけは日常生活の一幕だった。
そんな程度のバランスが丁度良いのかもしれない。
良いバランスを目指していきましょう。
しまった!もう太陽の化身が見え隠れし始める頃か…
こうやって近隣の記事からネタをそのまま引っ張ってきたりもするわけですが、
これはどういうことかというと、夢を見ようとしているわけです。
夢を日記に付けると明晰夢が見られるなんて話を以前しましたね。
結果本当に一度明晰夢を見ることに成功したという素晴らしい成果も得られました。
(明晰夢は記憶にハッキリ残るというけど本当だね、未だによく覚えてるもん)
これのオリジナル版として、自分の記事を他の記事でも使っていく。
これによって明晰夢がまた見られるのではないかと考えたわけです。
またワケの分からないことを言い始めたよこの人とか思ってんじゃねーよ。
このブログの記事は、他の人のブログと少し性質が違うわけだ。
言ってみれば形のない夢のような想像を書き殴ったものにすぎない。
夢を日記につけることにより、日常的に夢の内容を考えるようになり、
夢と現実の区別が曖昧になったところで明晰夢が見られるという話だった。
空想と現実の境界を曖昧にする程度の能力なら、多分このブログにはあるよ。
というわけで、常に虚節のことを考えていたら明晰夢は見られるのか?
本日より実験スタートです。
幸いにもこのブログには全記事リンクというものがあって、
さらにはカテゴリーごとに色分けまでされていると聞く。
虚言や妄想、対談や詩歌、文字通り夢話なんかを読み漁ってみるのも面白いかも。
日常からは目を逸らせ!
いざ、明晰夢の世界へ!
この夏、拾人の壮大なる計画がはじまる…
よく社会に出たら自分自身の物差しを持って云々という奴がいるが、
そんなことはとりあえず置いといて俺の持論を聞け。
物事は全てが程度の問題である、たとえそれがイエスノークエスチョンであったとしてもッ!!
これを無理矢理イエスノーにするから無駄なストレスを受けるんだよお前らは。
自分が何かして上司や先輩に怒られたとするじゃん。
それが失敗とは限りませんよ、特に問題ないようなことで怒られたのかもしれない。
ここでどうすれば怒られずにすんだのかと考えてしまうのがイエスノー人間。
今の俺なら、「怒られたけどこの程度で済んだからまあいいか」で済ますね。
むしろこの程度で済んだという認識によって自分の選択が正解だったと思えてくる。
イエスノー人間は「どうせ違うことをやってもコイツは怒るんだろう」と無駄なストレスを受ける。
今の俺なら、例え全ての選択肢が怒られることに通じていてもなお選択することができる。
その方が人生楽しいと思いませんか皆さん?
どんな問題でも自分が正解を選択できたと思える余地があるところが良いよね。
イエスを求めちゃ駄目なんだよ。
こんな言い方をすると、変に検索に引っ掛かりでもした日には聖戦を挑まれるかもしれない。
この場合は自分と相手、どちらが悪いの?
ほら来た、だからそれもお互いに悪くて、後は程度(割合)の問題なんだよ。
そのうち殴られてもゴツッくらいだったらむしろ可愛く思えてくるんじゃないかな。
むしろ本気じゃないパンチは相手に愛情的なものを感じさせる力さえあるのかもしれない。
よし、上手いこと相手に好意を抱かせるパンチを習得してストレスを発散しよう!
結論が変な方向に行ってしまった上にこれただのキチガイですわ。
教訓、自分の物差しで全てが測れると思ってはいけない。
今俺に必要なのはもっと疲れることだと思うわ。
そうすればあの文章が書けるんだ。
いや、文章ではない。
あの記事が書けるんだ。
いや、記事ではない。
アレが書けるんだよ。
そもそも文章なんてその時点で作りものじゃないか。
少しでも良く見せるために微細な嘘で塗り固められた真実もあっただろう。
良い嘘の餌食になった真実もあったのかもしれない。
でもあの場所にたどり着いたのならば、そんなことは関係ない。
ただただ脳の中身が垂れ流されるだけだ。
それは実は一番純粋な真実なのかもしれないじゃないか。
真実って、文章になるほど綺麗なものなんでしょうか?
如何様にも形を変え、何度でも訊きたい質問だね。
あなた(私)は何を伝えたくて、こんなことをしているんですか?
あなたは脳なんですか?指なんですか?それとも目ですか?
君が誰かわかるまで何度でも問い続けようと思う。
だから拾人(零人目)は、我が物顔でこのブログを荒らし回ってくれてかまわないよ。
この度、そういうことになったわけです。
既に他人にどうこうできる存在ではないのである。
意志と理由があれば人間はすぐにでも行動をとる。
この時点で成否は決していなかったとしても、ある段階までは物事が進んでしまう。
それは他者の行動も相まって徐々にその不可逆性を強めていき、
やがて思考の中で再現することすら困難になってしまう。
だがその事象の中でより強烈に脳裏に焼きついた要素が当人に負の影響を与える場合、
その要素はやがて逃げ出したい意志として結実する可能性を孕む。
それは当人の意志で削除できるものでもない上に自然に消えてなくなることも望めない。
それを横に置くためには、それを作ることに影響した全てのものから逃げ出さなくてはならない。
といったような理由で、人間が一人また一人と逃げ出していってしまう。
気がつけば自分自身も気づかぬうちに何かから逃げだしているのかもしれない。
何かを手放したときに、それを捨てたのか、或いはそれから逃げ出したのか、
判断することは容易ではない。
しかし、わかる人にはわかってしまう恐ろしさもあり、
その時点で彼もまた逃げ出すべき環境の一員となっている。
君は二度と彼に話しかけることすらないのだろうね。
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