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夏が来た。
そう言って窓の外を見ると、本当に夏だった。
…嘘じゃないだと!!
窓の外が冬なのに平気で夏の話をしたりだとか、朝っぱらから深夜テンションを装ってみたりとか!
そんな嘘はもうつけないというのか!?
これじゃ虚節として弱くなっているじゃないか!
…決めた、もう一回一年間更新停止します。
兄貴、一年後はまた夏ですぜ。
あと嘘深夜テンションならいつでもできるじゃないですか。
貴方、混乱しているんですか?
ああ、更新ペースが元に戻るというのはもはや本来のペースではないというか、
いつまで続けられるかという視点が入ってきてしまうことが大きな問題なんだ。
それまでは追い付くことが目的だったからそこから先のことは考えなくてよかったのに、
いざ追い付いてみるとまだまだ考えなくてはならないことが山のように残っていたんだよ。
精神的にブログの更新が辛くなってしまったんだ。
ところで、一体どれだけの人がここまでの流れをそのまま受け止めてくれるんだろうか。
もはやこの流れ自体が最初から全て嘘であるということも虚節では周知の事実である。
夏に夏のこと語れた方が楽に記事書けて良いだろうが。
このブログではもちろん真実も書くことができるんだぜ。
そもそも私の頭の中で発生したという点においては、全て事実ではないか。
このブログに書いてあることは全部ホントだよ。
嘘ではないという嘘と、嘘だという真実と。
その間にある絶妙なバランスのほぼ中心に拾人という存在が置き去りにされてしまった。
だから嘘か真実が彼を引っ張りあってさぞかし苦しいだろう。
というわけでこの季節をもって、彼をどちらか一方に振れさせてみようと思います。
真・拾人か、拾人(嘘)か。
この季節の終わりに零人目が冠することになる新たなHNはどちらでしょうか。
※どちらでもない。
なんか社会に出てみて、俺の周りであれだけ精神論を否定してた奴らが次々と倒れていくのを見て、
なんで俺はこうも無傷なんだろうかと自分自身が逆に怖くなってしまうんですが?
とりあえず社会が精神論過半数で回ってるってのはよくわかりましたけどね。
そもそも「設定変更」とか言ってる時点で精神を強固なものにするための技でしたけどね。
そんなものはあえて使わずにいてもやっていけるほどに、この社会は私に傷をつけられない。
俺が問題無く生きられる程度に、少なくともこの4ヶ月間の社会は軟弱だったわ。
1年後には真逆なことを言ってるかもしれないので一応保険はかけさせてくれ(笑)
よくセンスのある人は凡人が受けることのないストレスを受けて傷つきやすいと言うが、
つまり私は凡人でありながらにしてセンスのある人間を演じられる次世代中二マンということか。
オーラが見える人に私のオーラを見て頂きたいですね。
感覚的には真っ黒なようでもあり黄金の輝きを放っているようでもある。
しかし実際に見てもらえば何の変哲もないごくごく一般的なオーラなんだろうみたいな。
まあ簡単に言えば、俺の精神は強いということだ。
このブログを更新していることもその証明になる。
遅くとも朝7時には家を出て、夜10時過ぎとかに帰ってきて1記事書く気になるかい?
そうして仮に溜まってしまった場合は週に1日しかない休日を記事更新に取られることになるが?
でもよく考えたらそれは研究室での生活と何か違うんだろうかとも思うけどね。
まあ大きく違うのは研究室でも記事は書けるが職場ではさすがに無理ってことくらいか。
結構な違いですけどね。
少しでも時間を稼ぐためにトイレは職場で済ませてから帰るようになった。
あとは睡眠時間をどこまで削るかという話ですけどね。
つまり社会人の先輩方が言っていた睡眠時間という話はこの記事の縮図にして真理。
ようは睡眠時間なのです、それがストレスに感じる人はもうどうしようもないのです。
1日3時間しか寝なくても大丈夫な人はその時点で既に勝ち組みなのです。
時間なくても寝なくていいならいくらでも時間作れるんだよね申し訳ないけど。
ただ私は寝ないと駄目な人間なので、これ以外の方法で時間を確保するけどもね。
明晰夢を見るためという大義名分を拵えて仕事中に記事内容を考えてみたりとかね。
特に何も考えてないように見えて実はいろんなこと考えながら歩いてるのかもしれない。
じゃないと先に考えておいた内容を書くだけでも時間かかるのに、苦行になってしまうよ。
何事も続けるためにはそれが苦行にならないようにするというのが大事なんだな。
あえて飛び込んでいく俺かっこいいという技もありますけどね。
まあ記憶力が良い方なんでそんな感じで仕事してても普通に覚えられるってのはよかったね。
むしろ最近少しずつ先輩方に褒められる機会が増えてきたような気がしないでもないし。
その分怒られてもいるような気もするが、残念ながら過ぎ去った過ちは右から左へ受け流した。
覆水盆に返らずであるし、むしろここで怒られたことで次からは失敗せずに済むという変換も。
さらにはそれ自体も記事のネタになるのではないかという観点から見れば、
より面白い怒られ方をされるかもしれないという期待すら出てくるのではないだろうか?
なんなら今度グサッと来た怒り文句ランキングでも発表しましょうか?
加えて俺は精神を女がらみのことで一度すり減らされた過去をも有しているため、
これは実質的に相当な無敵具合を誇る鉄壁度なのではないだろうか。
ここまで書いてきて思ったけど、この記事は私自身を鼓舞しているんじゃないか?
ブログと実生活が良い具合に助け合ってるな。
別にストレスを受けてない時点で予防的にこんな記事まで書いてしまうくらいだから、
本当にストレスへの耐性は相当なものなんだろうということが自分でも分かってしまった。
これからは特技を聞かれたらストレス耐性ですとでも答えようかな。
少し前から変な性癖がついたかもしれないんだが。
そんな話誰も聞きたくねえよ!
…じゃあ違う話をしましょうかね。
舌の長い女性って良いと思いませんか?
全然話が変わってないんですが?
妖怪っぽいからとかそんなちゃちな理由ではないです。
普通なら届かないところに届きそうな感じが良いよねという話です。
だから必然的に積極的な性格が理想的ということになります。
まあつまり私の好みのタイプはこういうことになる。
比較的小柄で髪はセミロング程度、どちらかといえばおとなしめの性格で実は積極的、
特徴的な声色を持ち、舌が長い。
これ、市松人形に取り憑いた怨霊じゃね?
しかし、声とか舌とか外見とも内面とも言えないような部分に好みがあると大変ですね。
そして後から絶対に変えることのできない要素が多いので、もう私に彼女はできない。
結婚するとしてもお見合いとかで上に書いたのとは全然違う人とするんだろうな(苦笑)
一度彼女を作ってしまうともう彼女なしではいられなくなるのかと思いきや、
今ほど女というものを必要としていない時は無いというレベルで無欲になっている。
彼女を作るどころか女と話すことさえ別に無くていい。
どうやら一生のうちで女に触れる機会なんてそんなに無くてもよかったらしいな。
僕だけがそうなのかもしれないけどね。
聖人か?聖人なのか?
もう恋なんてしないに共感することすらできないレベル。
多分これは生き過ぎた環境適応能力の副作用なのだと思われる。
土木の職場には女がいないのだから、求めても無駄なのである。
ここで私の環境適応能力は、別にそれでいいを選択してしまったのである。
早いうちに彼女作っとかないと、作る気力さえも失ってしまうってことだな。
その点拾人ってすげーよなー、最後まで性欲たっぷりだもん。
そう、性欲だけはあるのだが、そんなものは別に隣に女がいなくても満たせる。
以前記事に彼女がいるのは普通だと書いたが、彼女がいないのもまた普通だった。
なんか高校までの自分に戻ったような気分だね。
もし僕が仮に今まで彼女作ることもなくここまで生きてきて同じことを言ったとしても、
おそらく本質的な違いは無いな。
彼女を作ったことがなくて彼女なんていらないと言ってる人の感覚と、
彼女を作ってみたけどまた彼女がいらなくなった人の感覚はほぼ同じです。
誤差はあるのかもしれないが、もう僕は彼女を作ってしまったのでそれに気付けない。
ただ両者には自由というものの意味合いにおいて決定的な違いはあるだろう。
一度でも他者から拘束された後に得た自由は、何ものにも代えがたいのです。
彼女がいないことですら、考えようによっては自由であり幸せなのだ。
まずは壱人目が先にいたのか捌人目が先にいたのかという点ですが、
実はここが非常に曖昧なのです。
壱人目は日記の管理人としてあるべき姿を具現化したような性格です。
どちらかと言えば数ある性格の中でもより「作られた」色が強いわけです。
対照的に捌人目は零人目の内側から引きずり出してきたような性格です。
二人が表裏一体と言われる所以はここにあるわけです。
より対極に位置するものほど二つ合わせたときに安定すると思ったのです。
それはただの平均であって、二つが混ざり合うことは無かったのですが、
それでも総合的に見れば偏りが少なくなっていることには違いない。
二人が表裏一体だったのは最初からではないということです。
本当なら壱人目が書く記事に捌人目を登場させることで、
二人の掛け合いによって面白い記事を書くのが理想ではありましたが、
それはブログの登場によって阻まれることになりました。
そして拾人目というブログ用の壱人目とも言うべきものが生まれました。
しかしその時点で壱人目の存在は拾人の中で相当大きなものになっていて、
それは解説という形でブログの中にも残る形となりました。
壱人目という存在がなければ解説も無かったのかもしれません。
日記の中では同じ曜日を共有する形で表裏を成していた二人でしたが、
ここで一度完全に切り離されたかのような形になりました。
その存在は早々に紹介されてこそいたものの、対談が始まる6thシーズンまでの間、
捌人目の方は本質的には存在してすらいなかったかのような扱いを受けてきました。
対談が始まって各人の立場が強調され始めてから妄想が始まるまで期間がありますが、
実際にはそれほど空きは無かったと言ってもいいのかもしれません。
大きな流れはその時既に決まってしまったと言っても過言ではないからです。
だから、壱人目と捌人目がこのブログ上で再び共演することになったのは、
拾人自身の意思すらも上回るほどの宿命的な必然だったのでしょう。
そして今季にて、壱人目と捌人目が合意したのです。
今では二人は同化することも離れることもできる。
壱人目は管理人として作られたという性質上、
物事に対する反応や自ら話題を作っていく能力が乏しい。
拾人自身にとっても壱人目の視点で記事を書くというのは非常に難しいことです。
対して捌人目の視点で記事を書くのはこれ以上ないほど簡単です。
何でも書けるしその出来栄えを気にする必要すらないのです。
だから影響が表れるのはおそらく壱人目の方のみでしょうね。
むしろ捌人目が純粋に何かから影響を受けたとしても、それは捌人目の演出になってしまう。
今回は純粋に影響を受けることを演出として選択したと拾人自身も捉えてしまう。
どちらかといえば無秩序な方に偏ることになるため、決して良いことではないのです。
合意という文字を使いつつも、その真意は妥協に似ている。
でもまあ、「することもできる」程度だからいいわけです。
壱人目と捌人目が反応し合って面白い記事を書くことを期待しましょう。
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